02 戦後オープンエンド住宅史
住まい手によって手が加えられることを前提に設計された、戦後の住宅作品をリサーチした。
建築家による重要なテキストを交えながら歴史を紐解く。(2020/05)
戦後の圧倒的な住宅不足に対し、短期間に大量に住宅を供給する手段としてプレファブが脚光を浴びる。流通機構を支えるインフラの不足や住宅不足の解消により、1955年頃を境として建築家の興味は最小限住宅へと移る。
「新陳代謝」という時間的な概念を導入することにより、建築のダイナミックな更新や動きの可能性を提示した。一部の提案は、未来を志向するあまり、人々の生活のコンテクストから切り離されていると批判された。
「<かた>は、特殊な場合に成立するものであるが、よく考えられた<かた>は広い普遍性をもち、長く生きつづけるものとなる。それは特殊な問題から出発して、どこまで範囲を拡大し、どれほどの問題に対して、つきつめて考えられたかによって<かた>の有効性の限界が決定づけられることを示してくれる。」
60年代以降は「システム化」「商品化」がテーマとなり、建築家は住宅を生産するシステムへの介入を試みるようになる。その後も、生産技術やインターネットの発達により、街並みを変えようとする試みは多様化している。
組織をもたない建築家にできることは、建築の方法や手法が高踏な一種の秘技的な世界であるという幻想を捨て、社会のなかで建築家の理論とは違うところで動いている状況を戦略のなかに組み込み直し、近代社会を構造化している「商品」が建築にまで及んできている事実に対し積極的にコミットしていくことだと訴えている。
建築のデザインは有名建築家のものがコピーされ、建築はポピュラーになりつつあるが、そうなればなるほど、消費されて紙くず同様に扱われる。しかし、まずはそのような状況を受け入れたうえで、フォルマリズムに頼るのではなく、新しい都市生活のリアリティを発見していかなければならないと述べている。
「住宅に作家性が表れることを注意深く避け、あらかじめ脱色された作品をつくろうと考えている。絞り込んだ条件を切れ味のよいコンセプトで一刀両断するような問題解決の仕方は確かに明快な建築を生む。しかしこの複雑な時代を生きる私たちが取る道は、複雑さをそのまま受け入れ、その中でバランスを失わないようにものごとを判断していくことだと思う。」
「私たち建築家は、「これは〇〇だ。」と短絡的にものを断定してしまうのではなく、ものに問いかけるスキルを持っているはずだ。人やものとの対話から得られる「小さな決断」をもとに、私たちは、考察と想像を繰り返し「向こうがわ」を描くのではないだろうか。ひとつひとつの決断は、互いに独立していながら常にほかの解決策と「向こうがわ」で繋がっていく。」
考察
・菊竹清訓は「建築代謝論(1969)」の中で、良いアイデアは単なる特殊解ではなく広い普遍性をもつと述べているが、スカイハウス(1959)で用いた格子梁のピロティというアイデアが、葉祥栄が設計したY-コートハウス(1980)で二次創作的に引用されているように見えるのは興味深い。
・難波和彦は、箱の家シリーズ(1995〜)の設計プロセスを、モダニズムの教義である「標準化」と「多様化」だと説明している。この「標準化」と「多様化」という考え方は、菊竹清訓の言う「普遍性」と「特殊性」に重なる。
・設計プロセスに住まい手の意志を介在させるオープンエンド住宅を考えるにあたり、建築家の作家性に関する議論は避けて通れない。「幻想を捨てて、町へ出よう/多木浩二×石山修武(1981)」や「消費の海に浸らずして新しい建築はない/伊東豊雄(1989)」などのテキストを読むと、メタボリズム以降、建築家が生活のリアルに目を向け始め、それに伴って自身の作家性を慎重に扱おうという空気感が生まれていることが分かる。それがより強いステートメントとして発表されたのが「非作家性の時代に/みかんぐみ(1998)」であり、建築家の存在意義とされてきたユニークネス=従来的な作家性が明確に否定される。以降、建築家の生活に対する眼差しは時代を追うに従って丁寧になっていき、オープンエンド住宅の「オープンエンドさ」の解像度も上がっていった。
・建築において作家性は二種類あると思っている。一つはユニークさやユニークさを過剰に表現しようとするエゴイズム、つまりみかんぐみが指摘した従来的な作家性である。しかし、従来的な作家性を注意深く取り除いてもなお、作品には自分が設計したというしるしが、デザインする時の手癖のようなものがどうしても残ってしまう。これがもう一つの、本来的な作家性とも言えるものである。自ら従来的な作家性を否定し、自意識過剰になった一部の建築家は、この本来的な作家性まで隠蔽しようと試みる。その格闘に関しても重要なテキストがいくつかあり、それはまた別のリサーチで紹介したいが、ここでは「とりとめのない日常と共にいるために/板坂留五(2020)」という直近のテキストを紹介するに留める。板坂留五は、建築は設計における小さな決断の集積であり、一つひとつの小さな決断を丁寧に下していくことが建築家のスキルであり責任であると述べる。ここでいう一つひとつの「小さな決断」を下していく時の手癖や思考パターン、言ってしまえばセンスが本来的な作家性だろう。板坂留五のささやかな宣言は、自分のセンスを躍起になって隠蔽しようとしていた建築家をその自意識から解放するとともに、依然として自分のセンスに対し注意深く向き合っていかなければならないのだと襟を正させるものである。
注:サムネイルと画像3枚目はsocks-studio.com、4枚目と12枚目はkai-workshop.com、5枚目はgoodrooms.jp、7枚目はkaikyou.exblog.jp、8枚目はmori.co.jp、10枚目は建築文化、11枚目はdaas.jp、13枚目はmikan.co.jp、15枚目は10plus1.jp、そして残りの画像は新建築よりそれぞれ引用している。なおこのリサーチは、中村が東工大塩崎研究室で行った研究を基にしている。
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